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日々雑感のブログです。
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サラとソロモン


最近読んだ本からの一節です。

『つまりね、サラ、君の幸せが他の誰かがやったりやらなかったりすることに
かかっているとき、君は罠にはまっているんだ。
なぜなら、他の人々が考えることや行うことを、
君がコントロールすることはできないからさ。
でもね、サラ、自分の喜びは他人にかかっているのではないということがわかったら、
その時には、本当に自由になれるんだ。
(中略)そして、君が喜びを感じられるかどうかは、
君自身が何に対して自分の注意を向けることを選ぶか、
ということだけにかかっているんだよ』
(『サラとソロモン』より)



エリック.バーンは同じことをTAを通して、
ジェイク.イーグルはReologyを通して、
また過去の偉人たちもそれぞれの教えを通して違う言語で伝えてきました。

すべては自分自身の選択。
どちらに注意を向けるかで、同じ出来事も違って見える。

嫌だなぁと思い続けると、その対象はますます心の中で大きくなり、
そちらへ注意を向けていることになる。
そうすると、そのことはますます強く、大きく、自分に関わってくる。

良いことも同じ。
「こうなりたい」「こうでいたい」と、そちらへ注意を向けると、
無意識はそちらへ行こうとする。

わくわくするような、気持ちが引き締まるような。


JUGEMテーマ:読書


優しさの使い方
こんにちは。
秋らしくなってきましたね。
お元気ですか?

さて、交流分析の用語にラケット感情という言葉があります。
簡単にいうと、代用感情・・それも簡単ではないですね。笑。

こんなことはありませんか?
怒っているけれど、心の底では悲しんでいる。
泣いているけれど、心の底では怒っている。
本当は・・・の本来の感情ではなく、自分自身も気づかず
浸っている、外側の感情のことです。

小さい頃に、その感情に浸っていると、かまってもらえたとか、
許してもらえたとか、自分なりの危機を回避できた経験から、
その感情に浸っていれば、それ以上最悪のことは避けられると、
無意識が決めるといいます。



援助する仕事をする人は、そのラケット感情にストローク(存在認知の関わり)を
送ってはいけないといわれています。
それをすると、またその感情を使おうとする、つまり本当の感情に
気付かず、そこに浸るパターンが強化されるというのです。

悲しんでいる人を見ると、慰めたり、手を貸したりしたくなりますね。
優しいのは素敵なことですが、もしもその悲しみがラケット感情だったら
それを助長し、同じことを繰り返す恐れが出てきます。

一見悲しみといっても、ラケット感情にはいろいろあります。
たとえば、自己憐憫、劣等感、自己卑下・・・etc。
そこに「いいね!」をしてはいけないのです。
それにともなう決断にも「いいね!」をしてはいけないのです。

手を出さない優しさ。

「あなたのおかげで」という言葉を言われないようにすること、
それがカウンセラーの仕事です。
その人が「自分が自分の力で元気になったんだ」
そう思って、自分の存在は忘れられることが
カウンセラーのやりがいです。

「素敵になってよかったね」よりも「わぁ、素敵!」
現在完了・過去完了よりも、ストロークは現在形で。
カウンセラーの自己満足に陥らない。
これまた、難しいです。

講師やカウンセラー、経営者、リーダーが
戒めねばならない優しさの使い方です。

さてさて、紅葉が楽しみですね。
お元気でお過ごしください。

支配と防衛と
こんにちは。
相変わらずのご無沙汰をしております。
だいぶ暑くなってきましたね。
お元気でしょうか?



最近、仕事や学びの場で、色々な会話に遭遇し、いつくか感じたことがあります。

交流分析では、あらゆる対話を図とベクトルを使って分析し、
それらを気づきの材料にします。

その中に「裏面交流」というものがあり、言葉で語られる「たてまえ」に
対して、非言語で伝わる「本音」の二つを表すものです。

たとえば
A:「上司の○○さんがいけないんですよ。いつもああだから・・」
b:「ほんと、ほんと。だから良くならないんですよね」

ありがちな会話です。
このまま本音の会話でもいいですし、たまにはこういう愚痴も、
気晴らしになることがあります。

しかし、その奥に、もっともっと深い本音はないでしょうか?

A:(自分が何もしないことはつつかないでね。嫌われたくないし・・)
B:(そうそう。責任は取りたくないし、自分に注目されるのは嫌だしね)

・・・少し皮肉な見方かもしれませんが、第三者の批判をしているときには、
こういうメカニズムも潜在していることが多いものです。
そう、つまり優れた「批評家」でいる、ということです。

自分に危険が及びそうになると、第三者を批判・評論することで防衛できる。
「知性化」と名づけられた「防衛機制」(心が傷つくのを守るシステム)ともいえます。

全く違う支配の形に、相手を批判、評価することによって、
優位を維持するというものもあります。

A:「〜については○か□か、どっちだと思う?」(二極的な選択を迫る質問)
B:「○だと思います」
A:「違うよ!。□なんだよ!」
B:「はい」

数カ月たって、ABともにそのことを忘れた頃、同じ質問があります。

A:「〜についてはどっちだと思う?」
B:「□です。」
A:「違うよ!○だよ!」
B:「???」

同じ質問をして二極的な選択をさせ、違う方を正解とする。
両方とも二極的なことだから、中間にあたる解説はできるわけで、
どっちともいえるのです。

影響力のある人であればあるほど、これがあると、
相手はただ支配された感覚に陥ります。
この支配が、防衛の裏返しでないとはいえません。

いずれも、人前で話す仕事をしている私には、
教訓として心しなければならないことです。

チームで仕事をするとき、
これらの支配性と防衛の関係を理解しておくことが、
気づきにつながり、本来の自律的なコミュニケーションへと
つながるとも感じています。

ではでは、また。
更新がいろいろで、すみません。(^^;
またお目にかかります。
お元気でお過ごしください。



ユーモアを出せる愛
紫陽花のきれいな季節になりましたね。
今年はまだそれほど暑くもなく、今は節電ができていますが、
どうなるでしょうね。

このところ「感動」をテーマに原稿を書いていました。
感動できる心のスタンスがあって初めて、感動について
話ができると思うのですが、書こうと思うと、どうも
頭が先に働いてしまいます。

そういうときは、散歩するに限りますね。笑。
紫陽花を楽しみながら、なんとか乗り切りました。



心が動くときって、理屈ではないですよね。

知人にこんな人がいます。

夫婦の間で、ちょっと腹の立つことがあった日、
御主人はパソコンを見つめて、それに気づかないという状況。

あなたならどうしますか?

その彼女は、まず最初に、廊下をドスドス歩きます。笑。
そして、反応がないと、また同じように廊下をドスドス歩きます。

そして次に御主人に声をかけます。
「あのね、私がこうしてドスドス歩いているのに、気づかないの?」

御主人は応えます。「どうしたの?」

このあたりで、「もう知らない!」といえば普通のやり取りですが、
彼女はそうしません。


「あのね、あなたの妻がこうしてドスドスしてたら機嫌が悪いこと、
分かるでしょ? そこで、どうしたの?何か僕が悪かった?
気づかなくてごめんね、って言ってくれたら、私、この人と
結婚して良かった〜って思えるじゃない。なんで分からないかな〜」


「あ、気づかなかった。ごめんなさい」


「う〜〜ん、もう〜、そういうのじゃなくて〜・・
どうしたの? って聞いて、私の話を聞いて、
そうだったんだ、ごめんね、でしょ!」
「はい、じゃ、やり直すからね。テイクワンっ!」
(と言って、腕でカチンコを鳴らすジェスチャーをする。
そして、廊下をもう一度ドスドス歩く)


「あ、どうしたの?何かあったの?」


「〜があって、こうなのよ」


「あ、そうだったの。気づかなくてごめんね」


「もう、その言い方が違う。はいっ、テイクツー!」

・・・・と、テイク8まで行って、終わったそうです。笑。

そして監督(?)は、
「あ〜、やっぱりあなたと結婚して良かった!」とOKを出します。

不機嫌な空気は最初の1分くらいでしょう。
素敵なご夫婦ですよね。

付き合う御主人も素敵ですが、不愉快な思いをしまいこまず、
ユーモアを使って伝える奥さまも、素敵ですよね。

自分特有の不愉快な思いをため込むことを、交流分析では
「スタンプをためる」といいます。スタンプとは、今でいう
「ポイントカード」みたいなものです。
ある程度たまると、景品交換をします。
つまり、突然ドカンと喧嘩が始まります。

スタンプはためこまないことが得策ですよね。
それを小さい内に景品交換してしまうか、交換せずに流すかは
その人の裁量次第です。

こんなユーモアで、かわいく景品交換するのは、ひとつの才能です。



ユーモアは愛です、と日野原先生はおっしゃいます。
考えると深い言葉です。

ユーモアを出せる心の余裕と、相手を思いやった場面づくりが
できるためには、その底に、相手への愛と自分への愛が必要です。

ちなみに、私はどうもユーモアで返すのが苦手です。
いつか、愛あるユーモアの出せる人になりたいものです。





ドラマ三角形
風薫る5月、いかがお過ごしでしょうか。
といっても、今年の気象は複雑ですね。
色々な被害にあった地域の方にお見舞いを申し上げます。



さて、今日は交流分析の「ドラマ三角形」について、少し。

人間関係の中でなんだか不愉快だな、
もしくはいつも同じパターンだな、と感じる出来事は結構ありますね。

上司部下の場合、
「○○、あの企画書はまだなのか!」とイライラする係長に、
「あ、すみません!あのー・・月末で良いとお聞きしていたので・・・」
と応える部下。
「ほんとに、わかってないなぁ」と拍車をかける係長。
今度は主任が
「係長、私も手伝いますので・・・」と仲裁に入る。
すると、係長の怒りの矛先が主任に向かう・・・

というパターン、ありそうでしょうか。
こういうのを、ドラマ三角形といいます。

役割を見てみると、
相手を責める「迫害者」
責められる「犠牲者」
助けようとする「救済者」 この3つです。

よく相手を責める人、
責められる、もしくは責められなくても自分を責める人、
見ていられなくて助けようと手を出す人、

この三つの役割がそれぞれ交代しながら
延々と不愉快なやり取り、人間関係を続けるというものです。
それこそ、テレビドラマにも、その役割がはっきりされていて
分かり易いストーリーに人気が出たりしませんか? 
それは、自分に照らし合わせて、
どの立場も分かるからではないかな、などと思います。

そして、もしも自分自身が、自分の人生において、
お馴染みの「役割」があるとしたら、どうでしょうか。

迫害者は、相手の欠点を見つけては責めたくなります。
なぜなら、責めている間は自分の欠点を見なくて済むからです。
責めている間は「してやったり」の気分に入るのですが、
状況が変わらないと犠牲者の気分になります。

犠牲者は、責められることや自分を責めることで自分の居場所を作ります。
犠牲者からは、救済者が魅力的に見えたりします。
助けを求めて、うまく行く時は良いのですが、
うまく行かなくなると、「あの人のせいで」と迫害者にまわることもあります。

救済者は、相手には問題解決の力がないと思って手出ししようとします。
そして、自分は優しいと思っています。
もしも、誰かから相談を受けて、その人から
「Aさんにこう言われました・・・私はどうしたら・・」
などと聞いて、思わずAさんに対して怒りが出て、
なんとかしてあげたくなったら、救済者から一気に迫害者にまわり、
Aさんを責める行動を起こしたくなるかもしれません。

誰もが全ての立場に立つことがあります。
ここで、誰が先に気づくかです。

人を援助する仕事の人は、
このドラマ三角形に入らないようにと戒められます。
これに入ってしまうと、「依存関係」が生まれます。
ただ、今何が起こっているかを整理するお手伝いをします。

そういう意味では、救済者になっていないかどうかの
チェックが難しいかもしれません。
踏み込み過ぎないこと、これは親子でも難しいですね。

自分も含めて、人には必ず解決の力が備わっている。
そして、今のやり方以外の、「代替案」が必ずある。

辛いのは、犠牲者のところにいるときでしょう。
自分を責めて、自分には解決の力がないと思い、
他にはやり方が浮かばないと思って落ち込みます。
こういった三角形のやり取りの最後は
みんなが犠牲者で終わることが多いのです。

では、犠牲者のポジションに行ったとき、どんな感情がありますか?
悲しみ、落ち込み、自己卑下、劣等感、孤立感、後悔、むなしさ・・・
それらの感情は、もしかすると、よく体験しますか?

もしも、それがいろいろな場面でよく感じる「お馴染みの感情」
であれば、それは、幼少期から、自分を守るために身につけた感情ともいえます。

不思議ですね。
人って、自分を守るために身につけて来たものを、
大きくなってから身動きが取れないほどに自分を窮屈にすることが
あるのですから。。。。

それをほどいて、自由な選択のできる自分でありたいものです。
これも、自戒をこめて。

季節の変わり目。どうかお元気でお過ごしください。


愛と依存は見分けにくい
この二日ほどで近所の公園の紅葉が一気に進みましたが、皆さんのところはいかがですか?
明日は天気が良ければ、写真を撮りに行きたいと思っています。(原稿をそっちのけで。笑。)



さて、最近twitterでも呟いたテーマですが、
ある講座の中で話題になったことを一つ。

「愛」と「依存」について。

テキストで「子どもの将来を想像してわくわくする」
という文章を読み、それは交流分析で言うところの
どの部分の機能なのか、という問題がありました。

交流分析では、心を三つの部門に分けます。
「親」のように、相手に視点が向いている部分。
「成人」のように、客観的に今ここを見る部分。
「子ども」のように、自分に視点が向いている部分。

子どもの将来を想像する、という部分には、
「親」として子どもの幸せを願う、という心情と
「子ども」のような心で単純に空想を楽しむ
という心情があって、それがどちらかなのは、
本人のその瞬間にしか分かりません。

では、「大切な人を失う悲しみ」
を考えてみるとどうなるでしょう。

大切な人が苦しい思いをするのではないか、
なんとかしてあげられないものか、
と考えると、視点が相手にあります。

その方法論は、今ここを見る目です。

大切な人がいなくなったらどうしようかと思う、
というのは、自分に視点があります。

両者含めて男女の場合、
「愛し合っている」
と表現する場合が多いですが、
あなたはどう思いますか?

「依存」と「愛」の境目は
現実にはとても分かりにくいものです。

「子どものことを思って」という言葉の裏に
「私が不安だから」はないでしょうか?

「君がいないと生きていけない」は
恋愛の言葉としては心動かすものがありますが、
果たして「愛」なのか?

恋に燃えている人に水をさすつもりはありませんよ。(笑)

でも、「愛」には
自分自身に対しても、相手に対しても責任が伴うこと。
ベクトルを相手に向け、その幸せを願うこと。
そんなものが含まれていると思うのです。

私流に表現すると
「祈り」に近いものです。

依存と愛は両方あっていいのです。
ただ、依存を愛と勘違いしないように。
分けておくことは大切。

私はそう思います。


どうぞお元気でお過ごしください。
本音は些細なことに
最近、研修の場面や心理の学びの場で、
たまたま同じようなことを感じることがありました。



苦情の場面を実習していたときのこと。
「申し訳ございません。○○をすぐに××致します。よろしいでしょうか」

という言葉の、最後の「よろしいでしょうか」の語調がほんの少しだけ投げやりに聞こえることがありました。器用な若者で、いろいろなスキルをきっちりと学んで吸収していましたが、「最後の最後の語尾に本音が見えましたよ」と伝えました。若者はお茶目な顔で小さく笑っていました。

また別の心理に関わる話の場面で、
「こういう人たちに気づかせてあげたい・・」
という言葉が耳に残りました。
「気づかせてあげる」・・・
「気づき」は自発的にするものであって、こちらがコントロールすることではありません。少なくとも心理を志すものたちは、それを肝に銘じます。教育の場面では、気づきのきっかけ作りはしますが、それでも気づきは自分自身のものであり、納得も自分自身のものでなければ、本当に役には立ちません。

「あげる」の中に、交流分析で言うところの「脚本」が現れます。つまり、その人のパターンです。ものの考え方、価値観と同時に、人や自分に対するとらえ方までもが、小さな小さな言葉に現れます。

些細なことに、その人の本音が含まれています。

私も、そうして自分を晒しているのでしょう。
そうであるなら、自己一致状態で晒したいものです。
4つの選択
夏も終わりが近づき、朝晩は過ごしやすくなりましたね。
お元気でしょうか?
相変わらずのご無沙汰をいたしております。


さて、今日は交流分析の杉田峰康先生の言葉をご紹介します。



『コミュニケーションには次の4つしかないのです。 
  1:自分の言いたいことを言って「いい気持ちになる」
  2:自分の言いたいことを言って「嫌な気持ちになる」
  3:自分の言いたいことを言わないでも「いい気持ちになる」
  4:自分の言いたいことを言わずに「嫌な気持ちになる」  』

・・・分かり易いですよねぇ。

つまり、「自己選択、自己決定、自己責任」ということです。
言うのも、言わないのも自分の選択。
そしてその結果の感情にも責任を持つ。

どうにもならないことを、
どうにもならないといって嘆く時間は
それほど長くない人間の寿命から考えても、
ほんの少しを除いては、
もったいない時間だと私は思います。

ほんの少しの例外は、
その事実を受け留めるだけの時間、
つまり悲しむ時間も人間には必要だということです。

その思いも大切にしながら、
自分のもらった時間を大切に過ごしたい。
。。。そう思いませんか?

残暑もあり、インフルエンザの流行もありそうです。
どうかみなさん、お元気でお過ごしくださいね。


時を歩くカメ
梅雨の季節となりましたが、お元気でしょうか?
沖縄は梅雨明け、北海道はやっと暖かくなったとか。
日本のあちこちで違うものですね。



このところ、研修や心理講座が交互にあり、
楽しく過ごさせていただいています。
先日ある講座で、自分自身のことを知る、
というテーマが話題になりました。

自分のことを知り受け留める、という言葉は短いですが、
私の場合、らせん状に気付きが生まれるので
ある程度の時間が必要であるように感じています。


時間をテーマにしているミヒャエル・エンデの
「モモ」という児童文学をご存知でしょうか?
そこには、30分だけ先がわかるカシオペイヤ
という名のカメが出てきます。

時間を食べものにする灰色の男たちに、
自分の時間を貯蓄していく働きものの人たち。
時をゆっくりと、でも少し先がわかるカメが象徴的な物語です。

自己理解には気付きが必要で、
気付きには出会いや学び、考える時間や、ご縁も助けになります。

人それぞれの気付き方や自己理解の仕方がありますが、
時間の経過が結構な味方になってくれることを
私は実感しています。

それをタイミングというのでしょうか。
「準備期間」も時間の経過でしょうね。

わかっちゃいるけど、
まだその時ではないということ、
自分自身の中にもあります。

だから、私もカメのように少しずつ、
ちょっと先の未来を見ながら
でも着実に歩いて生きていきたいと思っています。

暑さの中、どうかお元気でお過ごしください。

嫌いでいい


連休、いかがお過ごしですか?
温かい陽射しとさわやかな風が、
外へ外へと誘うようにも感じます。

さて、先日あるセミナーで
メンタルヘルスの話をしてきました。

メンタルヘルスでは、
感情と思考を分けて考えるところから始めます。
たとえば、
「わがままは良くないこと」というのは思考。
「わがままな態度に対してイライラした」は感情。

人間は自分の心の安全を守るために、
時に感情について無意識に
「そんなことを感じたらいけない」
という抑圧をかけるようにできています。
それを防衛機制と言います。

ほんとはあの人のこと、どうも好きになれない、
というか、むしろ嫌いの部類に入るかな・・・
などという感情があったとしても、そんなことを
感じる私は「良くない人」「狭量な人」と評価してしまい、
「そんな風に感じてはいけない」と抑圧することがあります。

そして時には、
「あの人は私のことが嫌いなんだ」と感じることで、
自分の感情をあたかも相手の感情のように感じる
「投影」が起こることもあります。


理由もなく人を嫌いと「表現する」ことは良くないですが、
だからといって、嫌いの「感情」があることに違いはない。

ここを一つにまとめようとしてしまうから、
しんどくなるのです。

「あの人を嫌いな私がいる。
 でも、それを表現することはコミュニケーション上失礼に
 あたるから、外には出さない。それなりの付き合い方をする、
 あるいはしない。。。」
という風に、感情と思考、そして行動の選択について
分けてやります。

問題は、自分の素直な感情を「無視」してしまうことです。

嫌いでいい。
そこから始まる恋愛もありますよね。(笑)
・・これは冗談ですが、

でも、自分の正直な感情を、
せめて自分自身くらいは、
きちんと認めてあげましょうよ。

それには、こんな「思考」も助けてくれます。
「すべての人を好きになる必要もなく、
 すべての人から好かれる必要もない。」

次のステップとして、
どうしてその人が気になるのか、
これにも同じような理由があるのですが、
それはまた次の機会に。

毎日が貴重な一日。
良い日々でありますように。