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日々雑感のブログです。
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生きることは
少し遅れましたが
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

新しい年を迎える度に
今年はどんな年になるのかというのと同時に、
人生とか自分のミッションについて考えることがあります。

そんなお正月に、
たまたま先日スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を観てきました。
スタジオジブリの作品は全てが好きというわけでもなく
それほど大きな興味があったわけでもありません。
息子が「よかったよ」と言ったのがきっかけです。
若い人が、それも男性が、この物語を見てよかったというのは
どんなものかという興味もありました。
http://kaguyahime-monogatari.jp/message.html

原作では
『かぐや姫は(月の世界で)罪を犯されたので、この地に降ろし
お前のような賎しいもののところにしばらくおいてやったのだ。
その罪の償いの期間が終わったので、こうして迎えに来た』と
月の使者は言うのだそうです。
高畑勲監督がそれをどのように解釈されたかは、
映画で個々にご覧頂けたらと思いますが、
それは「生きること」への問いかけでした。



偶然ですが、最近考えていたことに、
論理療法のアルバート・エリスの言葉がありました。
「他人が不完全であることを受け容れなさい
 自分自身が不完全であることを受け容れなさい
 人生が不完全であることを受け容れなさい」

人間はアダムとイブから始まり不完全なもの
だというのは聖書の頃から語られていることです。
いえ、そのもっと昔からですね。

しかし、いざとなると、
人に「こうであってほしい」
自分が「こうでなければ」
「自分の人生はもっとこうでなければ」
と思っては苦しむのが人間。
それ自体が人間の不完全さを物語っていますね。

月の使者が「お前のような賎しいもの」と言ったのは、
翁に対してではなく、人類そのものを指しているとすれば
その不完全な人間のことでしょう。

私たちはみな生まれたときには
竹から生まれたお姫様であり
王子様であるのかもしれません。

それが不完全なこの世で生きていくに
従って不完全さを知っていく。

しかし
不完全であろうとなんであろうと
「生きている」
ということを忘れてはいけない。

「生きてるだけでまるもうけ」
いやもう、そのとおり。

今、ここでこうして
息をして
笑ったり
泣いたりできることに
感謝。

不完全を楽しみ愛せる自分になれますように。
そして、人生が不完全であることを愛せる自分になれますように。
私自身の今年の希望の一つに加えます。

私のいるところ
こんにちは。

とってもとってもご無沙汰しております。
久しぶりにブログを書こうと思って開いたら、早数カ月。。。苦笑。
自分ではこんなに経っていると自覚がなく、
いかに日々立ち止まっていなかったか・・と反省。

さて、今回は、私のいるところ、について。

よく、「自分探しの旅」という言葉を聴きます。
思春期にその言葉を胸に、世界中を回ることも、
それはそれで、意味があるかもしれません。

ただ、私は時々思うのです。
「アメリカへ行っても、アフリカに行っても、
自分は見つからない。だって、もともとそこにいるから」と。

幸せの青い鳥のお話のように、
気づけば足元に、自分の足がある。



「私」は、喫茶店にいても、電車に乗っていても、
たとえ意見の合わない家族と一緒にいても、
幸せな家族と一緒にいても、どこにいても、
いつも一番身近にいます。

私と一番身近で、一番私のことを知っている私がここにいる。
だから、私の居場所は、「私自身」なんですね。

どこにいても、いなくても、
私の居場所はちゃんとあります。
「私自身」の中に。

その感覚が、交流分析でいうところの、
「OK感」とリンクしているように思います。

大丈夫、あなたの居場所はちゃんとある。
いつでも、どこでも、どんな状況でも。
一番近くに。

間もなく立春とはいえ、今年は寒いですね。
どうかお元気でお過ごしください。

JUGEMテーマ:日記・一般


私を創るもの
こんにちは。

あっという間に8月も下旬となりましたが、
どのような夏を過ごされましたか?
残暑が厳しいですが、お元気でしょうか?

さて、8月は割に日程に余裕があり、自分自身の勉強の場に
出かける時間を多く取ることができました。
アウトプットするためには、インプットや自分自身の棚卸も必要ですね。



時間があるので、色々と考えているうちに、
ふと、こんなことを思いつきました。

自分を創っているもの。

出会った全ての人や学び、旅先で出合った景色、空気、音、
聴いてきた音楽、食べてきたもの、触れてきたもの、
動物たち、芸術作品、乗り物、・・・・・

当たり前でしょうといえば、そうなのですが、
あらためて考えてみると、すごいことですよね。

生まれてから今までに経験し関わった全てが、自分を創っている。
例えば、着るものや食べ物を作った人や環境など、
会ったことのないものや人まで、自分を創っている。
そう考えると、DNAだけでなく、これだけの組み合わせを
持っている存在は他には無いに等しいことになります。

そんな自分を創る要素の中でも、今回は「苦手な人やもの」
に焦点を当ててみたいと思いました。

この人苦手・・・これは苦手・・・と思う背景には
自分の何が刺激されているのでしょうか?

苦手な人を、どうして苦手と思うのでしょうか?
苦手で関わりたくないと思っているのに、
どうして心がその人のことで占領されるのでしょうか?

それは、自分に一番関わりが深いという証拠なのでしょう。
まさに自分を創っているものということです。

つまり、何かが刺激される・・・刺激される要素があるということですね。

なぜ、刺激されるかというと、
自分が気にしていることであったり、
自分が嫌と思う自分の要素を見つけているからであったりします。
電極でいうと、同じ電極同士が避け合うように、
そしてまた、違う電極同士が引き合うように、
組み合わせとして同じ過ぎて合わない、ということもあります。
また、自分が実現したくてもできないものの場合もあります。
あるいは、自分が我慢している部分の場合もあります。

そういう人こそ、自分を構成する要素なのですから、
しっかりと見つめることで、自分の糧になります。

でも、糧にするのと付き合うのとは別問題です。
それほど長くはない人生、苦手な人と無理に付き合ったり、
嫌いな人と時間を過ごすより、気持ちが楽になる相手と
一緒にいる方が有意義でしょう。

私の言いたいことは、
苦手な人が現れたら、自分の中の何が刺激されているかを
見つめる機会にしてしまって、あとは忘れてもいいよ、
ということです。笑。

いやはや、何が言いたいのか、分かりにくいですよね。
このところ夏バテ気味で・・・を言い訳に、
今日はこの辺で。
お元気でお過ごしください。
親子
今朝、公園を散歩していると、
6〜7歳くらいのロングヘアのお嬢さんと、
スポーツマンらしいお父さんの親子連れが歩いたり走ったりしながら
一緒にいるのを見かけました。



まるでカルガモの親子みたいに、前に行ったり、並走したり、
時々後ろを見たりしながら、お父さんがさりげなく娘さんを
気づかっている姿が美しく、感動しました。

お父さんも娘さんも、黒でそろえたトレーニングウェアで、
顔を見合わせながら楽しそうに。

お嬢さん、あなたが20歳、30歳、40歳になったとき、
こんな時間があったことを、どうか覚えていてください。

色々なことがあると思うけれど、お父さんと喧嘩することも
あると思うけれど、もしかしたら時には恨むこともあるかも
しれないけれど、でも、
この時流れているものが、あなたへの真実です。

そんなことを言わなくても、きっとあなたなら、
この時間のことを、大切な宝物にすることでしょう。

今頃は会社と学校、それぞれに出かけていることでしょうね。
行ってらっしゃい。

真摯さと自由と幸運と


あけましておめでとうございます。

新しい年をどのように迎えられましたか?
私は年始早々にインフルエンザで休養を余儀なくされましたが、
おかげさまでゆっくりした時間を過ごせました。

年末は軽井沢へ行って来ました。
なんと17年ぶりの小旅行です。
色々な事情があり、仕事以外で家を一晩空けることは
この17年、ありませんでしたから、とても新鮮に感じた
のも事実です。

そこではアイスホッケーの試合を見てきました。
若者たちが楽しげに、チームで戦っている姿を見ると
スポーツの結びつきの良さを感じます。
自分がそれをあまりしてこなかっただけに、
羨ましくもありました。



そんなこんなの年末でしたが、久しぶりに環境が
変わったこともあり、感慨にふけることもできました。

あらためて思ったのは、
今、ここにいることのできる自分が、
いかに恵まれ、いかに幸運であるか、ということでしょう。

それだけでも幸運であるのに、
自分と同じような思いを持つ人たちとの結びつきができ、
尊敬する多くの人たちと心触れ合う時間が持て、
好きな人たちに囲まれている、
という幸運です。

ほんとうに、みなさん、ありがとう。



私がお付き合いさせて頂いている多くの方々は、
それぞれに個性豊かで、違った強みを持っています。
研修担当として、あるいは間接的な仕事上での出会いであったり、
プライベートなことがきっかけで出会ったり、
きっかけはそれぞれですが、
こんなにたくさん、素敵な方達と繋がっていられる
ことに、有り難さを感じざるを得ない気持ちです。

そして、みなさん、個性は違っていても、
目の前のことに真摯に向かうことのできる人です。

真摯な人は、
言い換えると、自由な人です。

今ここで、何を選択するか、
それを自分で決めることができ、
その選択の結果にも責任を負える人は、
自由な人と言います。

偶然ですが、半年前に下書きとして保存していた言葉があります。

『己れ自身を統治しえぬ者は自由にあらず』
(エピクテトス・奴隷から哲学者になった古代ローマ人。1c.)

自己実現という言葉は難しいですが、
自分の目の前の小さなこと、
例えば、
あの人に、今日は何も言わずに笑顔で過ごそうか、
あるいは、敢えて冷静に苦言を言おうか、
あるいは、ここを去るか、
あるいは・・・
あるいは・・・

たくさんの選択肢があり、
どれが正しいということはありません。

(もしも、これが絶対に正しい!というのがあるとすれば、
 それは例えばこの国もしくは地球上レベルで言えることで、
 他の国、もしくは火星では通用しないでしょう。)

最終的に正しいか正しくないかは、
自分の心と思考が決めます。
そして、行動を決めるのも自分です。
その結果に対して責任を取るのも自分自身です。

それを全て引きうけて、
決められる自由さこそが、
生きることへの真摯さではないかと思うのです。

なんだか偉そうに語ってしまいましたが、
そんなに立派なことは私自身ができません。
でも、小さな出来事が目の前に来た時、

「そう、本当は私は、選べるのだ」

と思っただけで自由になれるというのは事実です。
それだけで、目の前のことに真摯であるといえると
思うのですよね。

長々と脈絡もなく書きましたが、
そんなこんなの新年の私の思いです。
相変わらず不定期な、分かりにくい文を
書いてしまいますが、
本年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。



追伸:そうそう。FACEBOOKに個人名で登録しています。
   そこには写真と一行程度のコメントはたまに書いています。
   宜しければ、リクエストメッセージを下さいませ。





季節のように
つい先日まで雪が降っていましたが、
今朝、公園の陽当たりの良いところにある
桜の木に、ぽつぽつ花が咲き始めていました。

季節は予定通りにやってくるのですね。



巡る季節のように
時間が過ぎて行きます。

時に残酷に思え
時に癒してくれる
そんな時間の巡り。

時間も
自然も
人も
原点は同じと考えると

私はその一部
それらは私の一部

嫌いな人も
好きな人も
今日出会ったばかりの人も
遠くの知らない人も
動物も植物も。

だからいろいろ不満はあっても
基本的にはみんな愛そうと思っています。



私は時の一部
時は私の一部

私はあなたの一部
あなたは私の一部

遠く離れていても
祈りを送ります。

時間の巡りの中で
希望の光が足元に注いでくれますように。

地震の被害に遭われた全ての皆様に
心からの祈りを。ただただ送ります。

とかくこの世は
いよいよ寒くなってきましたが、
お元気でしょうか?

年末に向けてスパートをかけていらっしゃる方も
多いことと思います。良い結果が出ますように。



さて、最近散歩をしながらぼんやりと景色を眺める
機会があって、ふと気付いたのですが・・・

黒や赤で書かれた「○○禁止」「○○しないでください」
といった張り紙がやたらと多いなぁということです。

最近はコミュニケーション力が下がり、
自己中心的な行動をする人の割合が増えてきたと
聞くこともありますが、その対策なのでしょう。

それにしても、そんな無粋な張り紙を見るたび、
「・・・とかくこの世は世知辛い」と感じてしまう私です。

本当に守れないと迷惑がかかることや命にかかわることは
注意書きとして必要かと思いますが、それの枠を超えたものも
多いように思います。
皆が評論家になりつつある世の中。

広い公園でお年寄りがハトにお米を一握りやることも「禁止」
というのはファジーの通じない世の中になったものだと。

大事は「理」で決め、
小事は「情」で決められるのが真のリーダーであると、
私の師は言います。
そのあたりのファジー判断ができなくなって、
なんでも「理」で、それも匿名で張り紙をする、
その不器用さが残念に思えます。
せめて張り紙の言葉にも「情」があればと。

ファジーのできる人を育てるためには、
たくさんの体験が必要です。

最初はマニュアルで教えていき、
次にはファジーのケーススタディをたくさんさせる。
そしてその次はファジーの決断をできる人になり、
その理由を毎回言葉で説明できる人になる。
そんな順番で、人は育つのだろうと思います。

その基本は「相手の立場を想像できること」です。
つまり「情」であり、
「愛」なのですよね。

ちなみに、無粋の反対語「粋(いき)」は
「さりげないこと」だそうです。

寒さが増していきます。
年末に向けて、お身体に気をつけてお過ごしくださいね。


御無沙汰しております。

めっきり秋らしく
というのか
秋の終わりのような気候になりましたが
お元気ですか?

このところ原稿の仕事が重なり
パソコンに向かうのですが
なかなか進まない日々を過ごしています。

そんな中でも、唯一朝の散歩だけは
なんとか続いています。

先月のある日のことです。
亡くなった知人のことを思い浮かべていました。
ちょうど三回忌命日の翌日のことです。

亡くなった直後は、信じられない思いで
哀しいのか、何なのか、
分からない感覚でした。

でも、その日の朝は
なぜかその人のことが思い出され
胸が熱くなるのを感じながら歩いていました。

その次の瞬間
顔を空に向けると
大きな虹が正面に。
驚きと同時に
また涙が溢れました。



人や動物が亡くなると
虹の橋を渡ると言いますね。

その知人は、空の上から
「もう虹の橋を渡るから」
と言っていたのではないかと考えながら、
どこからも見えるその虹を
追いかけながら歩きました。

虹の橋の向こうで
また会おう。

それまでの間
私たちは
もう少しこの世で
生きて行きます。

与えられた時間を大切にしながら。
年輪
9月になっても、今年は暑いですね。
少し涼しい日があって、また暑くなると、
ますます暑さがこたえます。
お元気ですか?

最近、公園の中を歩いていて、
たくさんの木々の存在にあらためて気づくことがあります。

木を見上げていて、ふと思いました。
「この木は、いったいいつからここにいて、
何を見てきているのだろう・・」

屋久島の翁杉が2000年の樹齢で倒れたと聞きました。
2000年と言わずとも、身近な木々が50年、100年と
私たちを見続けているのですよね。



この木の年輪の中の、どこからどこまでが
私の人生なのだろう。。。などと考えると、
不思議な感覚です。

公園の木の年輪の一部には、私の人生もあり、
木の下を通る様々な人の人生もあることでしょう。

私という人間に年輪があるとすると、
私の中にある年輪の一つ一つには、
様々な経験と出会いが刻まれているはずです。
良いことも、良くないことも含めて、
それらが自分自身の年輪となる。
そうして、様々な出来事や人との出会いが
私自身となっていく。



私以外、誰も知らないことはたくさんあります。
でもそれらが今ある自分自身という年輪となり、
証拠として、形として残るということですよね。

一年の年輪はほんの数ミリ。
数ミリの中の凝縮した時間。

大切にしたいものです。
手紙
お盆の時期と重なり、夏の終わりのもの哀しさとともに亡くなった人を思います。この季節になると、戦争にまつわるテレビ番組も多く放送されます。

ある番組で、戦地からの手紙を今の大学生が読む、というゼミが紹介されました。厳しい検閲を潜り抜け、戦地から妻にあてたラブレターには「お前が私を愛しているよりも、私がお前を愛していることでは負けない」という言葉が綴られています。感想を聞かれた女子学生は「私なら、こんな手紙をもらったら嬉しいのと、こんなに書いてもらうと、ちょっと恥ずかしいような気持ちになります」と述べていました。

また、ある大学生は、「今はメールやツイッターですぐに返事が来るけど、手紙は何日かかかって届いて、そしてまた何日かかかって返事がくるというものですよね。時間がかかる。でも、この手紙のインクのにじみなどを見ていると、手書きの文字の向こう側に、書いた人の気持ちがあるような気がします」とも述べています。
「手紙」そのものに対する感想としては、その通りだと思います。
そうか・・手紙を書かない世代には、手書きの手紙そのものが、すでに珍しいものになりつつあるのですね。



私自身も戦争を知りません。ただ私たちの世代も、自分達の子ども世代、そのあとの世代にも、戦地からの手紙が、死を覚悟した人たちからの静謐なメッセージであることを、しっかりと読みとりたい、読みとって欲しいと願います。

妻に普段なら言えないような言葉も、生きて帰れないかもしれないからこそ、言えなかったことを言っておきたい一心で書いたことでしょう。受け取る方も、まるで遺書を読むような気持ちで抱きしめたことでしょう。
戦地への手紙は、もしかしたら届かないかもしれない。そして届くとしてもたぶん1カ月以上かかって手元に行ったのだろうと想像します。返信も同じく、と考えると、数日単位の音信不通も不安になる今のメールとは、ずいぶん違っています。

画家の夫から妻に送られた絵手紙は、鮮やかで美しい色合いの南の島の風景でした。画面からは美しい島の様子が見えますが、たぶん描いているご本人の目の前には、もっと切実な現実が見えていたことでしょう。それでも美しい絵を送り続ける思いを想像します。

父親から幼い息子に送られた「○ちゃん新聞」というハガキにも、カラフルでユーモラスなイラストが入り、まるでおとぎ話を聞かせるような文が小さな小さなカタカナ文字でつづられています。いつか、この子が字を読めるようになったら、という思いだったのか、いずれにしても、父親の愛に満ちたハガキです。その子は当時赤ん坊。そして4歳になったときに、お父さんは29歳で戦死します。

この、心の豊かさはどこから来るのか。
死を切実に感じるほどのところに行った人だからなのか。

私はどうか。。。

自分を省みることで、
命を思うことで、
亡くなった人を覚えていることで、
感謝を伝えられるだろうか。