man's-resourceブログ

日々雑感のブログです。
<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
NEW ENTRIES
CATEGORIES
RECENT COMMENT
PROFILE
 
サラとソロモン


最近読んだ本からの一節です。

『つまりね、サラ、君の幸せが他の誰かがやったりやらなかったりすることに
かかっているとき、君は罠にはまっているんだ。
なぜなら、他の人々が考えることや行うことを、
君がコントロールすることはできないからさ。
でもね、サラ、自分の喜びは他人にかかっているのではないということがわかったら、
その時には、本当に自由になれるんだ。
(中略)そして、君が喜びを感じられるかどうかは、
君自身が何に対して自分の注意を向けることを選ぶか、
ということだけにかかっているんだよ』
(『サラとソロモン』より)



エリック.バーンは同じことをTAを通して、
ジェイク.イーグルはReologyを通して、
また過去の偉人たちもそれぞれの教えを通して違う言語で伝えてきました。

すべては自分自身の選択。
どちらに注意を向けるかで、同じ出来事も違って見える。

嫌だなぁと思い続けると、その対象はますます心の中で大きくなり、
そちらへ注意を向けていることになる。
そうすると、そのことはますます強く、大きく、自分に関わってくる。

良いことも同じ。
「こうなりたい」「こうでいたい」と、そちらへ注意を向けると、
無意識はそちらへ行こうとする。

わくわくするような、気持ちが引き締まるような。


JUGEMテーマ:読書


生きることは
少し遅れましたが
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

新しい年を迎える度に
今年はどんな年になるのかというのと同時に、
人生とか自分のミッションについて考えることがあります。

そんなお正月に、
たまたま先日スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を観てきました。
スタジオジブリの作品は全てが好きというわけでもなく
それほど大きな興味があったわけでもありません。
息子が「よかったよ」と言ったのがきっかけです。
若い人が、それも男性が、この物語を見てよかったというのは
どんなものかという興味もありました。
http://kaguyahime-monogatari.jp/message.html

原作では
『かぐや姫は(月の世界で)罪を犯されたので、この地に降ろし
お前のような賎しいもののところにしばらくおいてやったのだ。
その罪の償いの期間が終わったので、こうして迎えに来た』と
月の使者は言うのだそうです。
高畑勲監督がそれをどのように解釈されたかは、
映画で個々にご覧頂けたらと思いますが、
それは「生きること」への問いかけでした。



偶然ですが、最近考えていたことに、
論理療法のアルバート・エリスの言葉がありました。
「他人が不完全であることを受け容れなさい
 自分自身が不完全であることを受け容れなさい
 人生が不完全であることを受け容れなさい」

人間はアダムとイブから始まり不完全なもの
だというのは聖書の頃から語られていることです。
いえ、そのもっと昔からですね。

しかし、いざとなると、
人に「こうであってほしい」
自分が「こうでなければ」
「自分の人生はもっとこうでなければ」
と思っては苦しむのが人間。
それ自体が人間の不完全さを物語っていますね。

月の使者が「お前のような賎しいもの」と言ったのは、
翁に対してではなく、人類そのものを指しているとすれば
その不完全な人間のことでしょう。

私たちはみな生まれたときには
竹から生まれたお姫様であり
王子様であるのかもしれません。

それが不完全なこの世で生きていくに
従って不完全さを知っていく。

しかし
不完全であろうとなんであろうと
「生きている」
ということを忘れてはいけない。

「生きてるだけでまるもうけ」
いやもう、そのとおり。

今、ここでこうして
息をして
笑ったり
泣いたりできることに
感謝。

不完全を楽しみ愛せる自分になれますように。
そして、人生が不完全であることを愛せる自分になれますように。
私自身の今年の希望の一つに加えます。

優しさの使い方
こんにちは。
秋らしくなってきましたね。
お元気ですか?

さて、交流分析の用語にラケット感情という言葉があります。
簡単にいうと、代用感情・・それも簡単ではないですね。笑。

こんなことはありませんか?
怒っているけれど、心の底では悲しんでいる。
泣いているけれど、心の底では怒っている。
本当は・・・の本来の感情ではなく、自分自身も気づかず
浸っている、外側の感情のことです。

小さい頃に、その感情に浸っていると、かまってもらえたとか、
許してもらえたとか、自分なりの危機を回避できた経験から、
その感情に浸っていれば、それ以上最悪のことは避けられると、
無意識が決めるといいます。



援助する仕事をする人は、そのラケット感情にストローク(存在認知の関わり)を
送ってはいけないといわれています。
それをすると、またその感情を使おうとする、つまり本当の感情に
気付かず、そこに浸るパターンが強化されるというのです。

悲しんでいる人を見ると、慰めたり、手を貸したりしたくなりますね。
優しいのは素敵なことですが、もしもその悲しみがラケット感情だったら
それを助長し、同じことを繰り返す恐れが出てきます。

一見悲しみといっても、ラケット感情にはいろいろあります。
たとえば、自己憐憫、劣等感、自己卑下・・・etc。
そこに「いいね!」をしてはいけないのです。
それにともなう決断にも「いいね!」をしてはいけないのです。

手を出さない優しさ。

「あなたのおかげで」という言葉を言われないようにすること、
それがカウンセラーの仕事です。
その人が「自分が自分の力で元気になったんだ」
そう思って、自分の存在は忘れられることが
カウンセラーのやりがいです。

「素敵になってよかったね」よりも「わぁ、素敵!」
現在完了・過去完了よりも、ストロークは現在形で。
カウンセラーの自己満足に陥らない。
これまた、難しいです。

講師やカウンセラー、経営者、リーダーが
戒めねばならない優しさの使い方です。

さてさて、紅葉が楽しみですね。
お元気でお過ごしください。

エール
こんにちは。
昨晩は中秋の名月、綺麗な満月でしたが、
ご覧になりましたか?

月を見ていると、地上で小さなことで悩んだりしていることが
どうでもよく見えたり、自分の人生という単位で時間を見ることが
できたりするような気がしますが、みなさんはいかがですか?

この夏、ある介護施設で、素敵なポスターを目にしました。
職員の食堂の壁に大切に貼られていたものです。
新人研修を先輩職員が担当し、それぞれのジャンルごとに
活き活きとした活動の様子が映っています。



介護・・・難しい仕事の領域だと思います。
人間として「老い」を見つめることの大切さ。



その「老い」に向き合い、看取ることの意義。
まだ「老い」がピンとこない若い世代が、その「老い」に向き合うこと。

綺麗事はいくらでも並べられますが
実際に毎日の生活を共にすることは、まさしく現実です。

それぞれの仕事に就くときに
それぞれの動機があります。

動機はそれぞれでも、日々の仕事は目の前にあります。
そして、その日々は、間違いなくその人の人生の時間でもあります。
そして、その人生の時間の先には、老いが待っています。

不思議ですね。
そうして人は時間を生きて行きます。



老いを見つめながら、日々の現実の繰り返しの中で
若者たちが奮闘しています。

どうか、あなたの人生の貴重な時間を、
あなたの手で、貴重なものにしてください。



写真の笑顔と
エネルギーに満ちた言葉たちが
食堂で見ている先輩職員を励ますことでしょう。

心からのエールを送ります。

支配と防衛と
こんにちは。
相変わらずのご無沙汰をしております。
だいぶ暑くなってきましたね。
お元気でしょうか?



最近、仕事や学びの場で、色々な会話に遭遇し、いつくか感じたことがあります。

交流分析では、あらゆる対話を図とベクトルを使って分析し、
それらを気づきの材料にします。

その中に「裏面交流」というものがあり、言葉で語られる「たてまえ」に
対して、非言語で伝わる「本音」の二つを表すものです。

たとえば
A:「上司の○○さんがいけないんですよ。いつもああだから・・」
b:「ほんと、ほんと。だから良くならないんですよね」

ありがちな会話です。
このまま本音の会話でもいいですし、たまにはこういう愚痴も、
気晴らしになることがあります。

しかし、その奥に、もっともっと深い本音はないでしょうか?

A:(自分が何もしないことはつつかないでね。嫌われたくないし・・)
B:(そうそう。責任は取りたくないし、自分に注目されるのは嫌だしね)

・・・少し皮肉な見方かもしれませんが、第三者の批判をしているときには、
こういうメカニズムも潜在していることが多いものです。
そう、つまり優れた「批評家」でいる、ということです。

自分に危険が及びそうになると、第三者を批判・評論することで防衛できる。
「知性化」と名づけられた「防衛機制」(心が傷つくのを守るシステム)ともいえます。

全く違う支配の形に、相手を批判、評価することによって、
優位を維持するというものもあります。

A:「〜については○か□か、どっちだと思う?」(二極的な選択を迫る質問)
B:「○だと思います」
A:「違うよ!。□なんだよ!」
B:「はい」

数カ月たって、ABともにそのことを忘れた頃、同じ質問があります。

A:「〜についてはどっちだと思う?」
B:「□です。」
A:「違うよ!○だよ!」
B:「???」

同じ質問をして二極的な選択をさせ、違う方を正解とする。
両方とも二極的なことだから、中間にあたる解説はできるわけで、
どっちともいえるのです。

影響力のある人であればあるほど、これがあると、
相手はただ支配された感覚に陥ります。
この支配が、防衛の裏返しでないとはいえません。

いずれも、人前で話す仕事をしている私には、
教訓として心しなければならないことです。

チームで仕事をするとき、
これらの支配性と防衛の関係を理解しておくことが、
気づきにつながり、本来の自律的なコミュニケーションへと
つながるとも感じています。

ではでは、また。
更新がいろいろで、すみません。(^^;
またお目にかかります。
お元気でお過ごしください。



私のいるところ
こんにちは。

とってもとってもご無沙汰しております。
久しぶりにブログを書こうと思って開いたら、早数カ月。。。苦笑。
自分ではこんなに経っていると自覚がなく、
いかに日々立ち止まっていなかったか・・と反省。

さて、今回は、私のいるところ、について。

よく、「自分探しの旅」という言葉を聴きます。
思春期にその言葉を胸に、世界中を回ることも、
それはそれで、意味があるかもしれません。

ただ、私は時々思うのです。
「アメリカへ行っても、アフリカに行っても、
自分は見つからない。だって、もともとそこにいるから」と。

幸せの青い鳥のお話のように、
気づけば足元に、自分の足がある。



「私」は、喫茶店にいても、電車に乗っていても、
たとえ意見の合わない家族と一緒にいても、
幸せな家族と一緒にいても、どこにいても、
いつも一番身近にいます。

私と一番身近で、一番私のことを知っている私がここにいる。
だから、私の居場所は、「私自身」なんですね。

どこにいても、いなくても、
私の居場所はちゃんとあります。
「私自身」の中に。

その感覚が、交流分析でいうところの、
「OK感」とリンクしているように思います。

大丈夫、あなたの居場所はちゃんとある。
いつでも、どこでも、どんな状況でも。
一番近くに。

間もなく立春とはいえ、今年は寒いですね。
どうかお元気でお過ごしください。

JUGEMテーマ:日記・一般


私を創るもの
こんにちは。

あっという間に8月も下旬となりましたが、
どのような夏を過ごされましたか?
残暑が厳しいですが、お元気でしょうか?

さて、8月は割に日程に余裕があり、自分自身の勉強の場に
出かける時間を多く取ることができました。
アウトプットするためには、インプットや自分自身の棚卸も必要ですね。



時間があるので、色々と考えているうちに、
ふと、こんなことを思いつきました。

自分を創っているもの。

出会った全ての人や学び、旅先で出合った景色、空気、音、
聴いてきた音楽、食べてきたもの、触れてきたもの、
動物たち、芸術作品、乗り物、・・・・・

当たり前でしょうといえば、そうなのですが、
あらためて考えてみると、すごいことですよね。

生まれてから今までに経験し関わった全てが、自分を創っている。
例えば、着るものや食べ物を作った人や環境など、
会ったことのないものや人まで、自分を創っている。
そう考えると、DNAだけでなく、これだけの組み合わせを
持っている存在は他には無いに等しいことになります。

そんな自分を創る要素の中でも、今回は「苦手な人やもの」
に焦点を当ててみたいと思いました。

この人苦手・・・これは苦手・・・と思う背景には
自分の何が刺激されているのでしょうか?

苦手な人を、どうして苦手と思うのでしょうか?
苦手で関わりたくないと思っているのに、
どうして心がその人のことで占領されるのでしょうか?

それは、自分に一番関わりが深いという証拠なのでしょう。
まさに自分を創っているものということです。

つまり、何かが刺激される・・・刺激される要素があるということですね。

なぜ、刺激されるかというと、
自分が気にしていることであったり、
自分が嫌と思う自分の要素を見つけているからであったりします。
電極でいうと、同じ電極同士が避け合うように、
そしてまた、違う電極同士が引き合うように、
組み合わせとして同じ過ぎて合わない、ということもあります。
また、自分が実現したくてもできないものの場合もあります。
あるいは、自分が我慢している部分の場合もあります。

そういう人こそ、自分を構成する要素なのですから、
しっかりと見つめることで、自分の糧になります。

でも、糧にするのと付き合うのとは別問題です。
それほど長くはない人生、苦手な人と無理に付き合ったり、
嫌いな人と時間を過ごすより、気持ちが楽になる相手と
一緒にいる方が有意義でしょう。

私の言いたいことは、
苦手な人が現れたら、自分の中の何が刺激されているかを
見つめる機会にしてしまって、あとは忘れてもいいよ、
ということです。笑。

いやはや、何が言いたいのか、分かりにくいですよね。
このところ夏バテ気味で・・・を言い訳に、
今日はこの辺で。
お元気でお過ごしください。
リスクはイレギュラーとともにやってくる
こんにちは。
7月に入り、梅雨らしい天候が続いていますが、お元気でしょうか?



さて、このところ仕事での「ミス」の発生について、複数のケース
を聴いたり体験することがありました。

たとえば、機材の検査をする行程で、傷やへこみを見逃すといった
ミスは、瞬きをした瞬間にも手が動いていたことや、
長時間の勤務のために集中力が減って、もしくは考え事をして、
目の前のことが見えていないことなどから起こったのではないかというケース。
人間の集中は1時間程度、もしくはもっと短いと言われていますね。

たとえば、医療機関での診察予約を取る際に、
複数予約を取った患者さんが、そのうち一つだけキャンセルをして、
いつもは取らない曜日の予約を残していた状況で、次に行ったら
その予約も削除されていたようなケース。
キャンセル手続きの際、パソコン操作上で削除したか、もしくは
「この曜日に来られることはないから」
と他のスタッフが削除してしまったか。

もっとシビアな事故などでも、係員が普段は入れない場所に
ボルトをしまって、サイズ違いのボルトを使ったために
金属疲労が起こったケース。

ファーストフードの店で、
担当者が接客をしている際、たまたま今シフトに入ったばかりの
スタッフがヘルプをしようと思い、代わりに
「出来上がるまでお待ちください」と顧客に説明をする。
担当者は、あとはヘルプのスタッフがフォローしてくれると思いこみ、
またヘルプに入ったスタッフは、声かけと製造の指示だけをしたつもりで、
どちらも顧客にその後の商品を渡さず置き去りになったケース。
そのケースでは、特定の時間帯に一気に顧客が入って来るという特徴があり、
実際に注文の直後に10名以上の新規顧客が入った。
忙しくなるぞ、という気分で気合いをいれてかかろうとしていた矢先のことです。



どの事例も、「たまたま」と言ってしまえば終わりです。

でも、300件のヒヤリハットがあると、29件の問題解決を必要とするケースがあり、
最後に1件の重大事故が起こると言われています。
「たまたま」はその300件の内の一つか、もしくは29件の内の一つか。

それに気づくことは、実際には難しいものです。
なぜなら人間は「慣れる」生き物だからです。
その人の中のパターンに慣れ、その人の地図ができ過ぎると、
勝手に「合理化」をします。

「このケースはたまたま、体調が悪かったからです」
「たぶん、○○の都合で、そうなったのだと思います」
「あなたが〜されたのではないですか?」 などなど
人は自分の地図を正しいものと思い込もうとします。

「ごめんなさい」と謝り
そのことをたまたまのこととして忘れます。

こうして話しながら、私自身も自分に言っています。
「うーん、合理化、するよなぁ〜」と。苦笑。

完璧な人である必要など微塵もないのです。
ただ気をつけたいのは、複数の「たまたま要素」が重なることで、
ヒヤリハッとが起こる可能性が高まるということです。

たまたま通りかかって、人助けをする人もあります。

ミスにつながる「たまたま」の連鎖は、
歩きながら歩かず、見ながら見ないで、聞きながら聞いていないときですよね。
これも、自戒をこめて。

蒸し暑くなって来ました。
お元気でお過ごしください。



ユーモアを出せる愛
紫陽花のきれいな季節になりましたね。
今年はまだそれほど暑くもなく、今は節電ができていますが、
どうなるでしょうね。

このところ「感動」をテーマに原稿を書いていました。
感動できる心のスタンスがあって初めて、感動について
話ができると思うのですが、書こうと思うと、どうも
頭が先に働いてしまいます。

そういうときは、散歩するに限りますね。笑。
紫陽花を楽しみながら、なんとか乗り切りました。



心が動くときって、理屈ではないですよね。

知人にこんな人がいます。

夫婦の間で、ちょっと腹の立つことがあった日、
御主人はパソコンを見つめて、それに気づかないという状況。

あなたならどうしますか?

その彼女は、まず最初に、廊下をドスドス歩きます。笑。
そして、反応がないと、また同じように廊下をドスドス歩きます。

そして次に御主人に声をかけます。
「あのね、私がこうしてドスドス歩いているのに、気づかないの?」

御主人は応えます。「どうしたの?」

このあたりで、「もう知らない!」といえば普通のやり取りですが、
彼女はそうしません。


「あのね、あなたの妻がこうしてドスドスしてたら機嫌が悪いこと、
分かるでしょ? そこで、どうしたの?何か僕が悪かった?
気づかなくてごめんね、って言ってくれたら、私、この人と
結婚して良かった〜って思えるじゃない。なんで分からないかな〜」


「あ、気づかなかった。ごめんなさい」


「う〜〜ん、もう〜、そういうのじゃなくて〜・・
どうしたの? って聞いて、私の話を聞いて、
そうだったんだ、ごめんね、でしょ!」
「はい、じゃ、やり直すからね。テイクワンっ!」
(と言って、腕でカチンコを鳴らすジェスチャーをする。
そして、廊下をもう一度ドスドス歩く)


「あ、どうしたの?何かあったの?」


「〜があって、こうなのよ」


「あ、そうだったの。気づかなくてごめんね」


「もう、その言い方が違う。はいっ、テイクツー!」

・・・・と、テイク8まで行って、終わったそうです。笑。

そして監督(?)は、
「あ〜、やっぱりあなたと結婚して良かった!」とOKを出します。

不機嫌な空気は最初の1分くらいでしょう。
素敵なご夫婦ですよね。

付き合う御主人も素敵ですが、不愉快な思いをしまいこまず、
ユーモアを使って伝える奥さまも、素敵ですよね。

自分特有の不愉快な思いをため込むことを、交流分析では
「スタンプをためる」といいます。スタンプとは、今でいう
「ポイントカード」みたいなものです。
ある程度たまると、景品交換をします。
つまり、突然ドカンと喧嘩が始まります。

スタンプはためこまないことが得策ですよね。
それを小さい内に景品交換してしまうか、交換せずに流すかは
その人の裁量次第です。

こんなユーモアで、かわいく景品交換するのは、ひとつの才能です。



ユーモアは愛です、と日野原先生はおっしゃいます。
考えると深い言葉です。

ユーモアを出せる心の余裕と、相手を思いやった場面づくりが
できるためには、その底に、相手への愛と自分への愛が必要です。

ちなみに、私はどうもユーモアで返すのが苦手です。
いつか、愛あるユーモアの出せる人になりたいものです。





親子
今朝、公園を散歩していると、
6〜7歳くらいのロングヘアのお嬢さんと、
スポーツマンらしいお父さんの親子連れが歩いたり走ったりしながら
一緒にいるのを見かけました。



まるでカルガモの親子みたいに、前に行ったり、並走したり、
時々後ろを見たりしながら、お父さんがさりげなく娘さんを
気づかっている姿が美しく、感動しました。

お父さんも娘さんも、黒でそろえたトレーニングウェアで、
顔を見合わせながら楽しそうに。

お嬢さん、あなたが20歳、30歳、40歳になったとき、
こんな時間があったことを、どうか覚えていてください。

色々なことがあると思うけれど、お父さんと喧嘩することも
あると思うけれど、もしかしたら時には恨むこともあるかも
しれないけれど、でも、
この時流れているものが、あなたへの真実です。

そんなことを言わなくても、きっとあなたなら、
この時間のことを、大切な宝物にすることでしょう。

今頃は会社と学校、それぞれに出かけていることでしょうね。
行ってらっしゃい。